* ☆ *




それから。
少年が通りに出てこられるまでの残りの日を、少女は歌を練習して過ごした。
そうして過ごしていないと落ち着いていられない、というのもあった。
けれど、隣人たちがいるところで練習するわけにもいかなかったから、
こっそりと、あのピアノの置かれた小屋を借りていた。

発音を調べて、ピアノで音を確認して、少しずつ、何度も何度も歌い続けた。
全てを続けて歌ってしまうと、それがどれだけの力を及ぼすか分からなかったから。

「……日光浴、した方がいいのかな」

そんな繰り返しの日々も、今日までで。
明日はまた、少年と出会う。出会える、はずだ。約束はしていないけれど、きっと来てくれると思えた。
だから、陽の光を浴びておくべきだろうと、少女は小屋を出て通りの方へ歩いて行った。



通りはいつも通り、人が行き交っている。
少年と二人で歩いた同じ道のはずなのに、けれど、全く別の景色に見えた。
当たり前のように日々は巡る。誰かどこでどんな風に苦しんでいても、それが当然のように。

誰が悪いわけでもない。気付かないことに罪はない。
あの日少年と出会っていなければ、少女だって今日もいつも通りの日常を送っていただろう。
星の光だけを浴びて、そこに影があることにも気づかないまま、ずっと、ずっと。

(そんなのはやっぱり、寂しいよ)

きっと、少年はそれでいいと思っていたのだろう。
そうして受け入れて、恐怖を押し殺して迎える最期も、きっと穏やかなものではあったのだろう。
届くか分からない手を伸ばすことは、苦しめるだけ、期待させるだけになるかもしれないのだから。
だから、少女は。これで正しいか、なんていう正解を自分が持っているとは思えなかった。
ずっと、きっと、思えない。だとしても、少年に生きてほしいと願うことは、酷い我儘だと、思う。

それでも少女は、少年に報われてほしかった。
もう終わる日常を綺麗に閉じてしまうのではなくて、いつまでも続いていくかのように、先が見えないくらいに。
笑っていてほしかった、独りでいてほしくはなかった、ただ星でいることだけで終わってほしくなかった。

手を伸ばす先は空ではない。きっとずっと、すぐ隣にいたのだ。

「……お願い。おねがい、神様…」

皆を照らす光に、祈りを捧げるように手を合わせた。
雨が降るにはまだ早い、夜に震えるにはまだ早い、最後まで、最後まで信じなければ。



「――キャローレ、おい、おーい」

次の日、少女は名前を呼ばれて目を覚ます。
聞き慣れたその声に、ゆるゆると瞼を開くと、少年がこちらを覗き込んでいた。

「……、えっ、か、カプリ!?」

飛び起きた拍子に、少女と少年のおでこがぶつかり合う。
ゴン、と鈍い音を立ててお互いに蹲った。

「きゅ、急に起き上がるな……」

「ごめん………、」

おでこを押さえながら、少女は少年の顔を見つめる。
ちゃんとそこにいる、少年の姿を。

「……、そういえば、用事って何だったの?」

「え?あ~……、細工師に、詳しく見てもらってたんだよ。体」

声の調子は少し暗い。余り芳しくない結果であったことは、聞く前から見て取れた。

「……もういつ砕けるか分からない、って、言われたんだ。
 それは今かもしれないし、明日かもしれないし、一か月後かもしれない。
 とにかく、それがいつ起きてもおかしくはない、ってことだ。
 おれ自身も、胸のあたりに違和感を感じ始めてる」

淡々と告げる――告げようとする声は、硬い。
事実を受け入れたからなのか、それともただ心配をかけまいとしているのか。
少女から見てそれは定かではなかったけれど、少年は、その事実を少女に伝えるべきだと判断したのだろうことは確かだった。

「だから、さ。もう、いいよ。もういいんだ。
 最期にこんな風に過ごせただけでも、きっと幸せだって思える。だから……」

「カプリ、あのね」

締めくくるような言葉を並べていく少年に、少女は口を開く。
例えそうだとしても、そうであるかもしれないからこそ、少女は。

「歌を、聴いてほしいの」



「……歌を歌うのに何でこんなところまでくる必要があるんだ?」

少女と少年は、通りを外れて、大きな木を超えて、その先の草原までやってくる。
陽の光は、さんさんと降り注いでいる。今日は、雲一つない快晴だった。

「ちょっとね、特別な歌なんだ。
 だから、あんまり人がいるところじゃ歌えないの」

「特別?讃美歌とかじゃないってことか?」

「うん。だから、ここ。二人きりじゃなくちゃ、駄目なんだ」

深呼吸をする。目を閉じる。陽の光を感じながら、目を開く。
今日という日は、こんなにも暖かい。

(この国を、この地を、私たちを)

(光で満たしてくれたのはカプリだから)

ただ、照らすだけで、貴方を終わらせはしない。
今度は、自分が、貴方を照らすのだ。

だから。

「……だから、ちゃんと聴いていてね、王子様」



――― 大きく、息を吸って。



「… Sol illuminat nos < 陽は我らを照らす >」

「Positivum nostrum, invenit < 我らを陽が見つける >」

少女は高らかに歌う。滑らかな旋律が、そよ風のように優しく流れていく。
草原は風に揺れて、ささやかに音を立てる。陽の光が、そこには溢れている。

「Occurrit hic in sunshine < 陽の光をここに満たす >」

「Ut salvos nos lumen < 我らを救う光 我らを導く光 >」

小鳥が飛んで行く。青空を羽ばたいていく。軽やかに鳴き声を響かせる。
それはどこまでも暖かく、どこまでも眩しい歌。

「Itaque hoc die, nos et calefac parum est me < この日が少しでも 我らを暖めてくれるよう >」

陽は、星の光を打ち消すのではない。だって、見えなくとも星はずっとそこにあるのだから。
太陽は、いつでも星の傍にある。そうして、星を照らしているのだ。

「Ut risus < どうか 貴方の笑顔を―― >」

誰も独りきりでないように。
誰も寒さに凍えてしまわぬように。
誰も、自分の影に怯えてしまわぬように。

こんな日に、こんな暖かい陽に、笑っていられるように。
そんな願いを、この歌は乗せている。

そんな想いを少女は乗せて、少年だけに届く光を、歌った。



「――― 。」

少女は目を開く。
陽の光はキラキラと眩く二人を包んで、そよぐ風は撫でるように流れていた。

「………ぁ、…」

少年の瞳から、星屑のように煌めく雫が、ボロボロと零れ落ちる。
それはまるで光をそのまま零しているような、陽の光に照らされて、耐え切れず溢れてしまったような。
そんな涙を零しながら、少年は胸元で手をぎゅっと握りしめた。

「カプリ、」

名前を呼んで、少女は手を伸ばす。
そうしてそのまま、包むように抱き寄せた。お日様のような温もりが、少年を包んで。
それを受け入れるように、それに答えるように、少年もまた少女の背に腕を回した。

そこにいるのは、ただ、二人の子供で。
他には誰もいなかった。見ているのは、太陽だけだった。

「……、あったかい、…あったか、いん、だ、
 ちから、が、ぬけて、…く、みたい、なのに……すごく、あったかい……」

泣きじゃくる少年が呟く声は、まどろむように柔らかく、溶けていく。
そうして瞳から零れる雨でさえ、ゆっくりと、陽の光が乾かしていく。

「うん。…キャロも、すごくあったかいよ。一人じゃないと、こんなに、あったかいの……」

気が付けば、少女の瞳からも雨が零れていた。まるで天気雨みたいだな、と笑みが零れる。
そうして見上げた空は滲んで、けれど、虹がかかっているように鮮やかに見えた。
ここにいる少年を、ただ涙に震える子供を、星なんかじゃないその一人を、抱きしめている。
腕の中の温もりは確かにそこにあって、ここは世界で一番暖かい場所だと思えた。

ただそれだけの、想いを抱えたまま。
陽の光に包まれて、二人はそうして温もりを感じながら、やがていつかの日と同じように瞼を閉じていく。
そうしてきっと、また夜が来る。星の光が、二人を照らす夜が。



「………、」

少女がゆるゆると目を覚ますと、そこに少年の姿はなかった。

「…カプリ……?」

寝ぼけ眼を擦って辺りを見回す。
辺りはすっかり暗くなっていて、遠くの景色は見えなかった。
立ち上がり、少年を探しに行こうとした瞬間。

「だーれだっ」

「わあっ!?」

手で目元を隠された。背後から聞こえてくるのは聴き慣れた声。
わたわたとして数秒、楽し気に笑う声と共に手は離される。

「もう起きてたんだな。ブランケット持ってきたんだけどいらなかったか?」

「ぶ、ブランケット取りに行ってたんだ…?ありがとう」

なんとなくそれを受け取ってくるまる。
少年は少女の様子に一つ頷いてから隣に座った。

「まあ、それもなんだけど…一回、城に戻ってたんだ」

「えっ?何か用事あったの?」

「…細工師が、今日までは城にいたからさ。見てもらったんだよ、おれの星の欠片」

その言葉に少女は息を呑む。
そう、全てが終わったような気持ちでいたけれど、まだうまくいったとは分からないのだ。
思わず表情が強張ったのを見て、少年はふわりと笑ってみせた。

「――奇跡だ、って言われたよ。
 まるで空っぽになったグラスみたいに、凪いでるってさ。
 これなら、当分は心配いらないらしい」

お前のおかげだよ、と柔らかい声で呟く少年を見て、少女はようやく、ようやく手が届いたんだと思った。
その気持ちに任せて、勢いよく少年に抱き着く。うお、と小さく声が漏れて二人で草原に転がった。

「よかった……っ、よかった、本当に……」

「……ああ、おれも、お前に会いに来てよかったって、そう思った。
 会えてよかったって、思うよ。きっと、これからもずっと」

涙に滲んだ少女の声に、少年がその頭をわしゃわしゃと撫でる。
夜の風がそっと吹いていく。今日も、空は星屑を散りばめて、キラキラと微笑んでいる。

「もうこのままここで寝るか。いや、さっきまでもまあまあ寝てたけど…」

「……王子様がこんなところで、寝てていいの?」

「いいだろ多分。むしろ王子だからこそどこででも寝てていいというか」

「そうかなぁ……」

言いながらも、草原を背に仰向けになる。
いつも見上げている星空が、今日はやけに優しく感じる気がした。
こんなに澄んだ気持ちで星空を見上げるのは、初めてかもしれない、と少女は思った。

(お日様が大好きだから、あの歌を歌えたのかな)

寝る前の絵本を読み終わった後のような、穏やかな静寂の中でふと考える。
お星様よりお日様が好きで、だからお星様には拗ねられてしまったのかもしれないな、なんて。
そんな勝手なことを想像しては、少し頬が緩んだ。

「本当はさ、」

不意に、少年がそう切り出す。
少女はごろんと、体の向きを変えると少年の方を見つめた。

「本当はずっと、なんでおれだけが、って思ってたんだ。
 皆がどうにか出来ないかって方法を探して、でも、少しずつ道筋が消えていって。
 段々、腫物扱いみたいになってきて。本当に、終わっちゃうんだって思った。
 
 …こんな風に生まれた代わりに、力だけは強くて、皆がおれを見て称えてくるんだ。
 素晴らしいって、ありがとうって、嬉しくなかった訳じゃなくても、……」

そこで言葉は止まる。言葉を失くしてしまったようにも、どう話せばいいのか迷っているようにも見えた。
少年にとって、こんな風に心の中を打ち明けるのは初めてなのだろう。少女は、ぼんやりとそれを感じていた。
それでもそう語りだそうとしてくれることは嬉しくて、そうしたいと思うのならばどんなに纏まらなくても聞いていたいと思えた。

「……キャロはね、カプリに生きていてほしかったんだよ。
 たとえ間違いだったとしても、生きていてくれるなら、王子様をやめちゃったっていいって思ってた。
 なんていうと、無責任に聞こえるかもしれないけど。キャロが一緒にいたいって思ったのは、王子様だからじゃないもん。
 
 キャロの歌を好きって言ってくれたの、すごく、嬉しかったよ。
 だからね、一緒にいてくれてありがとう。
 もう一度期待するのは、きっと怖かったのに、待っていてくれてありがとう」

少女の言葉に、少年はうん、とだけ返した。
その声が震えていたことには触れないで、また手を伸ばした。

「……ふふ、」

「なんだよ」

「こうしてると、世界に二人きりみたいだね」

楽し気にそう零す少女に、少年はいかにもよくそんなこと言えるな、みたいな視線をジトっと送った。
けれどそれも、少しの間のことで、ふっと笑みをこぼして、少年はまた口を開く。

「………そうかもな。少なくとも、一人じゃない」

少年の言葉に、少女はうん、とだけ返す。
そんな同じやり取りに、二人きりの笑い声が漏れる。そんな風に、当たり前の夜は更けていく。それを、今度は星だけが見ている。



――この国には星の光が降る。
  星の光が私たちを育ててくれる。
  だから私達は、お星さまに感謝しなくちゃいけないよ。

  だけど、お星さまが疲れないように、輝きすぎて影を作らないように。
  お昼はお日様が照らしてあげるんだ。そうして誰も独りきりにならないように。
  ずっとずっとそんな風に空は巡っていく。

  これは、そんなお日様とお星さまのお話。




* ☆ *