* ☆ *




「……キャローレ、最近熱心ですねぇ」

隣人が少女にぽつりと呟けば、枯れかけの声でうん、と少女が弱く返す。
少女がアウローラが過ごすこの建物の一室を歌の練習のために借りてから、今日で九日目。

少女はほぼ一日中この部屋にこもって、楽譜とにらめっこしながら賛美歌を歌い、
時々こうして隣人を呼んで練習に付き合ってもらっていた。
が、練習の甲斐はなく今日も元気に少女の歌は音を外している。
少女は長く、ため息をついた。

「今日はそのくらいにしておいた方がいいですよ、明日お出かけするんでしょう?」

「そっか、もう明日……」

「ほら、お水。ゆっくり休んでくださいねぇ」

そう言って、ひらひらと手を振り去っていく隣人の背中に、ありがとう、と呟いて。
もらった水を一気に呷ると、少しせき込んだ。

「うう、張り切りすぎた…」

もう一度長くため息をつく。
明日にはもう歌を聴かせなければならない。正直、笑われる方がまだましだ。
アウローラの歌がこんなものなのか、と失望してしまうこと。それが一番いやだった。

毎日聞いているから分かる。隣人たちの練習も見て来たから分かる。
アウローラの歌は本当に綺麗なのだ。
透き通る氷のようで、けれど光のように真っすぐで。
夜のように静かで、けれど暖かく包むように穏やかで。
少女はそんな風に歌えなかったけれど、その中で歌うことに罪悪感もあったけれど。
同時に、自分は特等席で、あの星のような歌声を聴けていると思うのだ。アウローラの歌が、大好きなのだ。

だから、どうせ聴いてもらえるなら、その大好きな歌を少しでも再現したくて。

「……でもここまで粘っても同じなら、覚悟決めるしかないかぁ」

駄目だから、下手だからって、気の抜けた歌を聴かせる理由にはならない。
下手なりに、音痴なりに全力で、一生懸命歌う。少女はずっと、そうしてきたのだから。



そうして、次の朝なんてものはあっという間に訪れる。

「お~、珍しくおそ……いやがちがちに緊張してない?」

「オハヨウゴザイマス」

「何?オーディションじゃないんだぞ」

「だって~~……」

一生懸命歌うと決めても緊張はするものだ。
少女が誰か一人に対してだけ歌ったのは、それこそアウローラに入る前の試験の時だけで。
だからどうしてもその時を想起してしまう、少女はここ数日で何回目かもわからない長いため息をついた。

「言っただろ~別に下手でも何でも気にしないって。
 よっぽどの音痴だったらそん時は笑い飛ばしてやるからさ」

「今だけはその言葉が心強い…」

はは、と軽く笑みを向けながら少年が歩き出していくのを、少女は追いかける。
そういえばどこか場所を用意すると言っていたな、なんてぼんやりと思い出しながら
けれど特に思い当たる丁度いい場所もないので緊張とちょっとのワクワクを混ぜて、少年の背中を見つめていた。



「はい、着いたぞ!ここだここ~」

そうしてたどり着いたのは、どこか高級な雰囲気に対して大きさは小屋といった感じの、ちょっと不釣り合いな建物。
通りから少し外れた所にあるとは言え、こんなところにこんな建物があったっけ、と少女は怪訝そうにそれを見つめた。

「…まさか今日の為に建てたわけじゃないよね?ここ」

「いやいやいや流石にそこまでしないだろどんだけ心待ちにしてるんだよおれ。
 ……ああ、そうか。ここ普段は隠されてんだよ。見てな」

少年は小屋の前に立つと、何かをなぞる様に指を動かす。
すると、小屋は夜空色に変わっていって、やがて地面に溶けていった。

「うわっ?!え!?こ、小屋溶けちゃったよ!?」

「…もしかしてお前、王族の魔法実際に見たことないのか。
 これは星の欠片を持ってる王族なら誰でも使える魔法だぞ~ものを星空の水たまりに出来るんだ」

少女は地面を改めて見つめる。
確かにそこには、夜空のような黒い水たまりと、キラキラと煌めく星屑が浮かんでいた。
はあ、と感嘆のため息が漏れる。手品を見た後の子供のように、星屑を映して煌めいた目が暫く地面に縛り付けられていた。

「すごい、こんなこと出来るんだ…流石王子様…!」

「まあな~~~もっと褒めてもいいんだぞ…」

「本当にすごい!綺麗だし、しかも小屋みたいにおっきいものも隠せるなんて…
 これ水たまりに触ったらどうなるの!?あ、っていうか星の欠片も見てみたい!!それからそれから、」

「お、おお落ち着け民草の少女よ。今日はとりあえず歌をな、聴きに来たわけだからな。
 褒めてくれるならまんざらではないがその他の色々は後日だ、うん」

褒めろと言った割に、少年は少女の言葉にやけにどぎまぎしているようだった。
ややぎこちない動きでまた指が虚空をなぞる。星空は再び小屋の形になって、やがて陽に照らされた。

「んじゃ入るぞ~。あ、ちなみにここ中にピアノもあるんだよな。
 練習に使うように貸してやってもいい」

「えっそうなんだ、ありが……
 …これ結局何の建物?」

「ん?まあおれんちの別荘みたいなもん」

サラッといったな、と思いながら少女は少年の後に続く。
鍵はかかってないらしく、そのままドアノブを捻った先に広がるのは、
ピアノと椅子以外何も置いていない静かな空間だった。
掃除は行き届いているのか、少女がぐるりと室内を見回しても汚れやほこりは見当たらない。

「ではキャローレさん、準備をお願いします」

「そのオーディション前みたいなのやめて…」

ドカッと椅子に座ってさも偉そうにする少年の前で、
少女は咳払いをしてから深呼吸をする。

(いつも通りに歌えばいいんだ)

少年は、少女の歌が聴きたいと言った。
なら、答えるのはありのままの歌だ。

「…―――、Le stelle 」

大きく息を吸う。

そうして少女が紡ぐのは、いつも通りの元気に外れる歌だ。
音を合わせようとする努力は感じられても、やっぱり高くなったり、低くなったりでぶれている。
少女はそのままの調子で最後まで歌っていく。
確かに音痴で、けれど声は真っすぐに高らかで、何より少女は、楽しそうに歌っていた。
それはまるで、覚えたての歌をただ想いのままに歌う小さな子供のような歌。

「… Per favore, dormi tranquillo」

そうして、歌は終わる。
ふう、と満足げに息をついたところで少女はハッと顔をあげた。

「……ど、どうだった?!」

慌てたように感想を求める少女を見て、
ただぼんやりを歌を聴いていた少年が途端に笑い声を漏らした。

「いや、正直もっとひどいの想像してたから…
 まあ確かに音痴と言えば音痴だな。それも重度の」

「やっぱり……」

あからさまにしょげた少女に、いやいや、と少年は付け加える。

「でも、おれお前の歌好きだよ。
 上手い下手とかじゃなくて、なんか、素直な歌で。お前らしい」

「…それ褒めてる?」

「褒めてる褒めてる。アウローラの歌は何度も聞いてたし、すごい綺麗だなって思うよ。
 でもなんだろうな……お前の歌は、お前が歌うために歌ってる、って感じがする。
 星座というより流れ星って感じだな。静かに光ってるんじゃなくて、これでもかってくらい輝いてるやつ」

少年が紡ぐ言葉は嘘には聞こえなくて、少女は段々とその言葉の実感がわいてくる。

少女の歌を好きという人はいなかった。
アウローラは聖歌隊だ。本来であれば、沢山の努力を積み重ね、大勢の人の中から選ばれなければ入れない。
少女は拾われ、そして光をその身にため込む才能があり、だからこうしてアウローラにいる。
だから、だから。いくら練習を重ねても歌が上手く歌えない自分が、この場所にいることは。
それしかなくて、それは受け入れられていて、何気なく日常が過ぎていても、心のどこかで空に雲はかかっていて。

それでも歌うことが好きだったから。

「……すき、かぁ。そっか……」

それだけを呟いた少女に、そうだよ、と返して少年は少女を見つめた。

「………えっ、」

ふ、と笑みを浮かべた少女の頬に雫が零れて、星屑みたいに煌めいて、落ちていった。
少女はぼんやりと頬に手をやると、何故か楽し気に笑い声を零す。

「…っふふ、どうしよう……キャロ、こんなに嬉しいの、初めてかも…」

「う、嬉しい?嬉しいなら、な、なんで泣くんだよ……」

「嬉しいものは嬉しいの!」

ごしごしと目元を拭ってから、また笑ってみせた。
こんなに胸が暖かい心地になるのは初めてで、けれどこれを嬉しいと少女は呼びたかった。
だから、雨は無理矢理に乾かして晴れてみせた。

「まあそれはそれとして、笑ったからケーキ食べにいこっか」

「さっきの笑った判定に入るの?」

「入るに決まってるでしょ!
 ……聴いてくれてありがとう、カプリ。また沢山練習して、聴いてもらうからね!」

「折角褒めたのに……、ああ、はいはい。忘れてなければな」

約束ね、と付け足して嬉しそうに外に出ていく少女の背中を、どこか眩しそうに少年は見つめて。
二人で小屋を後にすると、少年は最後に、再びその小屋を夜空の中に隠した。

「ほら、日が暮れる前に行かなきゃ!
 カプリは王子様だから、夜になると忙しいでしょ?」

「まあな~、でもまだ日が暮れるまでは時間あるだろ。
 急がなくてもケーキは逃げないぞ」

「もうお腹がケーキの気分になってるの!」

「お前朝飯食ってないの?いやそれとも育ち盛りの食いしん坊か?太っても知ら」

「そういう話は今はなし!!」

もう、と少し乱暴に言って、少女は少年の手を取った。

「うお、」

「通りにおすすめのケーキ屋さんがあるんだ!……ちょっと高いけど」

「奢らせるからってわざわざ高い店をチョイスするとは、がめつい民草の少女だな…」

「そういう話も今はなし!!それに値段の分のおいしさは保証するから」

はいはい、ともう一つ返して少年はただ少女に手を引かれるまま、歩き出す。

まだ日は高く、空の下を歩く二人は足元に一つ分の影を作った。
まだ夜は遠く、空の下を歩く二人を照らしたのは陽の光だった。

* ☆ *