* ☆ *




―――どんなに打ちのめされていても、生きていかなければいけないものだ。

お腹はすくし、お金は必要だし、時間は過ぎていく。
少女はあの日、少年と話した次の日から、アウローラでの務めを再開した。
隣人たちは勿論心配したけれど、少女は何も話そうとはしなかった。

話せるわけがなかった。
これは二人きりの逢瀬で、しかも恐らく王族しか知りえない事実を知っていて。
少女がこれを正直に話したところで、ありのままを信じてくれる人が何人いるだろうか。
むしろ、王族への冒涜として酷く責められるかもしれない。

…もっとも、少女が話さない理由は。
誰かに、少年と同じように諦めろと言われるのが怖かったからだ。

「……キャローレ、キャローレはいる?」

「えっ、…あ、う、うん。どうしたの?」

ノックの音と共に自分を呼ぶ声がして、少女は慌てて立ち上がる。
扉の先に立っていた隣人は、その手に封筒を持っていた。

「キャローレ宛にお城からお手紙が来たのよぉ、何かあったの?」

「………、」

ぎこちなく封筒に視線を落とす。差出人は――少年ではない。
少年ではないけれど、少女はその名前を知っている気がした。
国民であれば聴いたことくらいはあるはずだ。王子よりも上の、その人の名前を。

「…王様…‥から…?」

さあ、と血の気が引いていく感覚。
心当たりなんてただ一つしかない。少年と密かに会っていたことだ。
そしてわざわざこうして手紙を出してくる。どう考えてもそれがバレたとしか思えない。
この前あんな別れ方をしたんだから少年自身がわざわざ手紙を出してくるわけも、ない。

くらり、頭が眩む。

「だ、大丈夫?顔色が悪いわよぉ…」

「だ…だいじょうぶ……うん、ありがとう、読んでみるね」

とにもかくにも、中身は確認しなければならない。
もし仮に、自分のせいで少年の体調が悪くなっていたとしたら責任はとらなければいけないと思うから。
あれからもう、しばらく会ってないけれど。

(…きっともう、抜け出したりしてないだろうし)

会うに会えなかった。だから、怒られに行くとするなら。
せめて一言何か言わせてほしい。それくらいは、許してもらえるだろうか。

罰を受ける前の罪人はこんな気持ちなのだろうか、そんなことを思いながら封を開けた少女は。
その中に書かれている、ただ一文だけをまじまじと見つめた。

『カプリコルノに会いに来てほしい』

「……え?」



少女は手紙を持って、通りを歩いていた。
結局、この手紙を受け取った日も休みを取ることになってしまった。
しかし隣人たちがこぞって休め休めというものだから、あまり気負わずに出てくることができた。

(心配かけちゃってるなぁ…)

自覚はある、けれどどうしようも出来ない。
会いには行けない、言っても追い返されるかもしれない、
またあんな風に冷たい言葉が降ってくるかもしれない。
八方ふさがりで、どうしようもなくて、けれど目に焼き付いた煌めきだけはずっと消えないものだから。

「………、…」

立ち止まって、息を長く吐く。
そうしてもう一度手紙を見つめた。正しくは、手紙の裏。
地図が、書いてあったのだ。そして一か所だけ赤く丸がついている。
少女は、その場所を知っている。かつて少年に連れられた、小さな小屋だ。

かつて二人で歩いた道を、一人で歩く。
会いに来てほしい、と書いてあるということは。
きっと、ここに少年がいるのだろう。そう思うと、少女の足が竦む。

(…王様は、もしかして、ずっと気づいていたのかな)

少年が、お城から抜け出して、少女に会いに来ていることに。
だから、抜け出さなくなったのを見て、会ってほしいとわざわざ手紙まで出したんだろうか。
王様だって、少年には生きていてほしいだろう。それでも、それが無理であるならせめて、自由に過ごしてほしいんだろう。
少女は王様と話したことはなかったけれど、ぼんやりとそんな気がした。

「…――いかなくちゃ、」

足を無理やりにでも進める。同じ星空は二度とない。同じ時間は二度と流れない。
なら、後悔の一つだって、少女は残したくないのだ。



恐る恐る扉を開ける。
まだ少年は来ていないようだった。静かな部屋の中に、ピアノだけがぽつんと在る。
少女はピアノの方へ歩み寄る。それから、そっと鍵盤を押した。
やはり手入れはされているようで、澄んだ音が部屋に響く。それに合わせて、少女は声を出した。

「……こうして歌う分には、音、ずれないのになぁ…」

一人ごちる少女の背後で、扉の開く音がした。

「まったく、掃除なんて普段頼まないくせ、に、……?」

振り向いた少女の目と、驚いた顔でこちらを見る少年の目が合う。
少女が何かを言う前に、少年は身を翻した。

「っ、カプリ!?」

そのまま去っていこうとする少年の手を、少女が掴む。
少年は無理矢理にそれを振り払って、顔を歪ませて少女を睨んだ。

「お前と話すことなんてない。
 そもそもなんでここにいるんだ、勝手に入ってきて…」

「王様から手紙をもらったんだよ!カプリに会ってほしいって…」

「……っ、ああ、その手紙か…なんでそんなこと……」

「きっと、王様は知ってたんじゃないかな、カプリがずっと、」

「ずっと抜け出してきてたのを知ってたことくらい、気づいてたよ」

吐き捨てるように言って、酷く狼狽えた声で、頭に手を当てた。
ゆら、と少年の足がふらつく。少女は今まで一度だって、こんな少年の様子を見たことはなかった。

「最初に抜け出してから、誰も追いかけてこなくなったんだ。
 これ見よがしに街の人の服なんて置いてあるし、分かるに決まってる。
 どうせなら最期まで自由に過ごしてほしいって、そう思って見逃してたんだろ、分かってる、分かってるよ…」

荒く息を吐く。それはまるで言い聞かせているようで、そう思わなければならないと、自分に押し付けているようでさえあった。

「もう皆諦めたんだ。おれも諦めた。もうどうしようもないんだ、誰にもどうすることもできない、
 なのに、なのになんでお前はそんなに真っすぐなんだよ、
 どうして諦めてくれないんだよ、諦めさせてくれないんだよ、
 もうお前だけだよ、お前だけなんだよ……」

泣き出してしまいそうなくらいに震えた声で、
ただただ感情を吐露する目の前の姿を見つめて、少女はようやく気付いた。

この人は、星なんかじゃない。
ただ皆を照らして、輝いて、それだけでいいと思えるわけがない。
この人は、この子は、自分と同じだ。自分と同じただの普通の、子供でしかないんだ。

言い聞かせて、諦めようとして、何度こんな言葉を繰り返してきたんだろう。
せめて穏やかな最期を迎えさせようとする優しい檻の中で、何度次の朝を迎えたいと思ったのだろう。
どうして手を伸ばさないと届かないなんて、思っていたんだろう。

(最初からここにいたよ、ずっといたんだ…)

皆が見ていたのはその光だけだ。
その光が照らす影で、少年がどんな想いを抱えていたか、きっと王様すらも知らない。
今ここにしか、きっと影はない。星が作る影はとても小さくて、一度目を離したら消えてしまうくらい、儚い。

「……ごめんね、」

だから少女は、その背に手を伸ばした。
ただここにいる少年だけに届くように、ぎゅっと抱きしめた。
少年はもうその手を拒むことはなかった、出来なかった。
抱きしめ返すことも出来ない手が、ただ緩く少女の服を掴んだだけだった。

腕の中で嗚咽が漏れる。とりとめもなく、雫が零れていく。
それはどうしようもない悲しみで、拭われることのない苦しみだ。
少女は諦めたくなかった。今だってそうだ。けれど今だけは、抱きしめた痛みに後悔が滲んだ。



その日、少年が星に祈ることはなかった。
夜からさえも隠れてしまいそうなちっぽけな小屋で、二人分の泣き声が響いていた。
それでも星は輝いている。光はこの地に降り注いでいる。
それが止むまでずっと、朝が来るまでずっと、少年と少女はそこにいた。

太陽が星を隠す時まで、ずっと。

* ☆ *